活力のあるシニアが
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「おかしい」と思ったら仕事なんておいて明日病院に行ってください。周りに迷惑がかかるなんて遠慮しないで皆様にもっと自分を大事にしていただきたいわ。
お昼のテレビ番組『いただきます』がきっかけとなり、その個性的なキャラクターと飾らない辛口のコメントが人気を集めた塩沢さんは、今年七十八歳。今なおパワフルな塩沢さんに、健康へのこだわりと秘訣をうかがうためにインタビューをお願いしました。
「あら、ワタクシ、健康には何のこだわりもございませんのよ。三回がんになっていますが、食べたいものは食べたいだけ食べます。どうやったら病気になるとか、気にすること自体がストレス。ワタクシは一切気にしません」
ただ、がんにも負けない塩沢さんのこと、やはり秘訣はお持ちのようです。
「その代わり、ストレスは周りの皆様にしょっていただくのよ(笑)」
気になることはその晩のうちに解決しなければイヤ。車の運転をすれば「そこのけそこのけ、お馬が通る」という風で通してしまう。やりたいように生きているから「脳溢血でイクんじゃないか」と自分で思うこともあるけれど、眠れなくなるから寝る時には一切考えない。そんな性格が幸いしてがんを早く見つけられたのだと塩沢さんは言います。
「一人っ子で大事にされてわがままに育ったんだけど、それがよかった。自分を一番大事に思わなかったら、何がなんでもと病院へは行かなかったと思うんですのよ」
それはまだ塩沢さんが三〇歳の時のこと。撮影を終えて記念写真を撮り、家に持ち帰った晩のことでした。
「あら?なんかやせた?鎖骨が浮き出てカッコいいじゃない」
記念写真に写る自分を見て、塩沢さんはそう思ったそうです。その晩、自宅で食事をした後に、口の中にほんの少しだけチクッとした違和感を感じました。些細な痛みなので気にも留めずやり過ごしていると、またチクッとします。魚の骨でも刺さったのかしらと思ったけれど、この日の食卓にお魚は上がっていませんでした。おかしいと思って灯りの下で口の中をひっくり返して見たら、舌の裏側にまるで鶏皮のようにブツブツがいっぱいできていたのでした。
これは、がんだ。
普段から早とちりで慌てん坊の塩沢さんですが、この時直感したものに間違いはなかったのでした。本棚の前に走り、がんについて書かれた書籍を開いてみると、そこに全く同じ症状を見つけます。この書籍は塩沢さんが尊敬していた丸山誠二監督から強く薦められて買った監督の友人の著書でした。塩沢さんはすぐに隣室に寝ていた母親を起こしました。
「お母ちゃま、大変なことになりました。私はがんです。お母ちゃまを置いて死にます」
「お前、急に何を言うんだ」
さっきまで一緒にご飯を食べていた娘が突然「死にます」なんて、当然ながら母親は何のことなのかわかりません。それなのに娘は「私が死んでもお母ちゃまが食べていけるようにこれこれのことはしますから」と続けます。当時、がんと言えば今と違って死の病。塩沢さんがこの時まっ先に考えたのは、自分がいなくなって母親が食べれなくなると困るということでした。塩沢さんはすぐさま丸山監督に電話し、書籍の著者である癌研付属医院院長を紹介してほしいと頼みました。監督は、翌日朝七時にロケに発つから、それまでにおいでと応じてくれました。
翌日癌研に行き、その日に入院、翌日に手術。この頃、最新のがん治療である放射線手術を受けられたため、塩沢さんは舌を切除せずにすみます。そして、歯を全て抜かれました。実は、塩沢さんのチャームポイントだった八重歯ががんを招いたらしいのです。塩沢さんには、上の歯の虫歯にものが詰まると舌で引っぱり出そうとする癖がありましたが、その時に舌の裏の柔らかい部分が繰り返し八重歯に当たったのが、舌がん発生の原因になったそうです。
また、この頃は塩沢さんにとって精神的にも辛い時期でした。道ならぬ恋に七年も苦しみながら、年上の男性を父親を慕うような気持ちで追いかけた。その気のない相手を、追いかけて追いかけて無理矢理につきあったそうです。その上、いい役柄にも恵まれず、当時の塩沢さんは気持ちも鬱々として、今のように明るくはなかったと言います。
がんになっても絶対に泣かなかった塩沢さんでしたが、ある時、張りつめた糸が切れたように悲しくなったこともありました。それは退院後、通院するために玄関に立った時でした。いつものように玄関で送りだしてくれる母親の前で、突然「うわっ~」と泣き出してしまいました。
「お母ちゃま。私とっても悲しい。いつ再発するかわからないのに、そう思いながら病院に通うのはとっても悲しい」
初めて本音で泣きじゃくる娘。母親は黙って娘のおかっぱ頭に手をのせて、静かに撫でました。いつもは気丈な母親。母娘で大げんかすることも度々だったのに、この時ばかりは一言もなく、ただ黙って撫でてくれました。それで塩沢さんの涙はぴたりと止まったそうです。
そんな塩沢さんが一躍人気スターになったのは、五十七歳の時でした。友人の司葉子さんは「塩ちゃん、あんた狂い咲きだわ~」と言ったとか。
「まさにその通り。街を歩けば『ときちゃん、ときちゃん』。飛行機に乗ればスチュワーデスに『頭触らせてください』。なんで?と思ったけどお相撲さんと同じなのね。トレードマークの頭もどんどん大きくなるものだから、トイレに入る時も斜めにならなきゃ入れなかったり(笑)」
そんな絶頂期に、塩沢さんは再びがんにかかります。忙しい日が続く中、珍しく早く終わったので帰宅してお風呂上がりにくつろいでいた時のことでした。この時着用していたのが東急百貨店で一目惚れしたムームー(あっぱっぱに似た夏用の部屋着)。長年愛用していたのでゴムがのびて、おっぱいが出ていたのが命の分かれ目でした。顔から首へと乳液を付け、余った乳液をたまたま開いていた胸に付けた時に右胸にしこりを見つけます。「ああ、これで死ぬんだ」と、この時にも直感でがんだと思ったそうです。夜、マネージャーから電話が掛かってくると、
「ワタクシ、がんになりましたので、明日午前中でいいから時間を空けてください。空けてくれなくてワタクシが死んだら、あなたどうやって責任を取ってくださるのって言ったんです。ひどいでしょ~。マネージャーが困ることなんかちっとも考えてないのよね(笑)」
でも、もし仕事を休んだら周りに迷惑が掛かると思って遠慮していたら、がんを早く見つけることはできなかったと塩沢さんは言います。
「皆様にももっと自分を大事にしてほしい。人に遠慮なんてしていたら、早期発見なんて無理。がんになったことのない人はわからないかもしれないけれど、自分の肉体には敏感でいなきゃダメ。『おかしい』と思ったら仕事なんておいて明日病院に行かなきゃ。そのくらい、わがままにおなんなさいね」
一昨年にも左胸にがんができ、手術を受けた塩沢さんですが、命を守ることができたのは自分の体のためにわがままであることを通したからだと語ってくれました。ストレスをためず前向きに。大きな声を出して元気に過ごし、人に遠慮し過ぎない。塩沢さんのような生き方が、病気に負けない秘訣なのかもしれません。
(しおざわとき)昭和3年、東京生まれ。実践女学校卒業。東宝2期ニューフェイス。テレビ番組『いただきます』で個性的なキャラクターが人気を集める。満78才になる現在も舞台やテレビで活躍中。
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