活力のあるシニアが
新時代をつくる
様々な分野で活躍している著名人のシニアライフを紹介しています。
元TBSアナウンサーで、定年退社後はフリーとしてニュースからバラエティまで幅広く活躍している鈴木史朗さん。役者さんのような凛々しいお姿と、低音で響く美しいお声はお茶の間でもおなじみです。順風満帆の人生と思いきや、波乱に富んだ人生を歩んできたとのこと。幼少時に過ごした中国のお話から、趣味のクルマやゲームに関するお話を伺いました。
日中戦争のさなか、父が「日本と中国の架け橋になろう」という思いで、日中合同の貿易会社を設立しました。一家で中国に渡った関係で、幼少期は北京と天津で過ごすことになります。
日本人居住区の前を通る運河には、毎日のように嬰児の死体が流れていました。中国人街で産まれた子どもを間引いているんですね。それを見た父と母は、中国の人に医療と衛生の知識を普及させようと、診療所を作って世話をしていました。ところが、終戦を迎えた途端、我が家の財産は没収されてしまいます。
父はスパイ容疑で拘留され、残された母と私と4歳と3歳の妹、生まれて3ヶ月の乳飲み子は、着の身着のまま追い出されてしまったんです。母はストレスで母乳が出なくなり、子どもたちはまともな栄養を取ることができない環境の中、乳飲み子は亡くなりました。
港に向かう途中で列車に乗った時は、遊び半分の中国兵が遠方から発砲してきます。「パンパン」と乾いた音を立てて銃弾が耳元をかすめていった時の恐怖は、今でも忘れられません。その後、父も釈放され、一家で日本に戻ってくることができたんです。
アナウンサーになるきっかけは、小学校4年生の時に読んだ和田信賢アナウンサーのエッセイです。「アナウンサーは人間修養そのものである。人間修養できたものだけが人前で話す資格がある」という言葉に感銘を受けました。中・高・大と陸上部に所属していましたが、大学で陸上を辞めて放送研究会に入ります。
TBSに合格できた理由は、声ですね。当時は、ラジオ全盛の時代で、外見はどうでもよかったんです(笑)。フランク永井さんの低音の魅力ブームで、「君は低音だからマイクの乗りがいい」ということで採用されたようです。ただ、そこからがまた苦労の連続。入社6年目で異動になり、希望とかけ離れた制作や著作権の仕事を担当させられます。アナウンサーとしてカムバックを果たしたのは48歳の時。前例はありませんでしたが、不撓不屈の精神で戦いましたね。
それから、バラエティ番組に呼ばれるようになりました。笑福亭鶴瓶さん司会の「世界ナンバーワンクイズ」では、どんなことがあっても笑わない解説者として話題になり、島田紳助さん司会のクイズ番組では、“おもらいおじさん”(注1)として全国を回りました。そこから、「さんまのスーパーからくりTV」でお年寄りにクイズを出題する“ご長寿早押しクイズ”につながるんですね。
最初はお年寄りを笑いものにすることに反対でしたが、やってみるとお年寄りたちは喜んでいるんです。ある老人ホームで、車椅子に乗り、おしめを当てている元重役のおじいちゃんがいました。やる気もなく顔色も悪かったのですが、この方に集中してヒントを差し上げていたところ、クイズに答えたんです。正解した途端、顔に赤みが差して笑顔が戻った。介護やボランティアの方も大喜びで、その後、「おじいちゃんは車椅子から立ち上がって頑張っています。番組のおかげです」とお手紙をいただきました。人から誉められることは、身体にいいことなんですね。その後も、多くのお年寄りと出会い、さまざまな元気をもらっています。
(注1)クイズの賞品として、全国の名産品をもらいにいく役に出演していた。
定年後は、今までガマンしてきたことから自分を解放することに努めました。今は、中国ウォッチャーとして、サラリーマン時代には言えなかったことを、講演会でお話しさせていただいています。行く先々で出会ったおじいちゃん、おばあちゃんたちとの交流が楽しみで、新しい発見もありますよ。
定年後に新しく始めたことは、歌です。すぐにTBSのカラオケ道場に入門し、発声と演歌とポップスの先生について習いました。メキメキと腕をあげた結果、ラジオ番組でご一緒した永六輔さんから「20年ぶりにボクが詩を書きます」ということで、平尾昌晃さん作曲で「想春譜」というCDを出しました。当時の3人の年齢を合わせると188歳のトリオです。その後、歌のレベルをあげて、演歌の「月と盃」、都営地下鉄大江戸線の応援歌として青島幸男さん作詞の「大江戸線音頭」を出しました。「大江戸線音頭」は、大江戸線38駅それぞれに詩を付けたもので、全部歌うと30分以上あるんです。これからも、山田耕筰や西条八十が作った古きよき歌を歌い継いでいきたいですね。今は、カラオケ講師養成講座で、「いかにプロ歌手を超えるか」という新しい課題に取り組んでいます。
やりたいことはガマンしないのがモットーで、ゲームも大好きなんです。特に、「バイオハザード4」(注1)の大ファンで、芸能界でこれをクリアしたのはボクと加山雄三さんだけ。加山さんに初めてお会いした時に「クラウザー!」(注2)とあいさつを交わして以来、ゲーム親友として情報交換しています。若い方もクリアできないゲームを、我々がなぜできるかというと、敵が襲ってくる時の苦痛に耐える根性がたたき込まれているからですね。精神力がないと、困難を乗り越えることはできません。ゲームはもっぱら女房たちが寝た夜十二時くらいから。朝方三時くらいまでやってることもあります。
もう1つ辞められないのが、クルマですね。日本の公道を走るなら日本車が一番。10台ほど国産車を乗ってきましたが、現在の愛車は「トヨタ・アルテッツァ・ジータ」です。3000ccのエンジンで220馬力、トルク30キロ。名エンジンと言われる直列六気筒2JZは、チューンナップすると300馬力は出ます。踏み出しもいいし、乗っているだけで心地よくなるんです。今や、クルマは私の身体の一部ですね。
講演活動、歌、ゲーム、クルマすべてが私のエネルギー源です。運動はしていませんが、中・高・大の学生時代に陸上で完成させた身体は、今でも私を支えてくれています。自分のやりたいことをやる、世の中のためになることをやる。この精神でこれから先の人生も突っ走っていきます。
(注1)グロテスクなモンスターたちを倒していくアクションホラーゲーム。世界中で人気を博す。
(注2)敵方のキャラクターの名前。
ていねいな口調でインタビューにお答えいただいている鈴木さんから、誠実でまじめな人柄が伝わってきました。反面、中国問題について熱く語る姿や、若者も太刀打ちできないアクションゲームに熱中しているお話や、レーサー並みの走りをするというお話からは、内に秘めた熱いものを感じることができました。
五歳と一歳半になるお孫さんの面倒を見たり、保育園まで迎えに行ったりすることも、鈴木さんの健康を維持する秘訣につながっていると思いました。
お父様が中国に日中合同の貿易会社を設立し、鈴木一家が天津で暮らしていた時の写真。レンガ作りの自宅の前で。2歳ごろ。
高校一年生の時、インターハイ予選に出場。100メートル競走で11.2秒のタイムをマークし、三位に入賞した。(写真・右)
早稲田大学卒業間近、放送研究会の同期の面々と。鈴木さんがTBSの試験に受かった直後の写真。同期の男性は文化放送とNHKに合格したが、女性の合格者はゼロだったとのこと。(写真・中央)
48歳でアナウンサーにカムバックを果たした時。その後、まじめなキャラクターが買われてバラエティ番組に進出し、笑福亭鶴瓶、島田紳助、明石家さんまという、強力なお笑いスターと競演することになる。
昭和47年頃の鈴木史朗さん。アナウンサーの職を外れ、制作ディレクターとして屋外ロケを仕切っている。その後も、報道畑を歩くことになる。
鈴木史郎(69歳)1938年京都生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、TBSに入社し、アナウンス室に配属。以後、制作部、報道局社会部などを経て、アナウンス室に復帰を果たす。ニュースを読む傍ら、バラエティ番組にも進出。「さんまのSUPERからくりTV」の“ご長寿早押しクイズ”の司会者としてお茶の間の人気を集める。1998年の定年退職を機にフリーに転身。ニュースやバラエティをはじめ、舞台、ドラマ、歌、ファッションショーまで幅広いジャンルで活躍している。「水戸黄門」の4代目ナレーターとしてもおなじみ。
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