活力のあるシニアが
新時代をつくる
様々な分野で活躍している著名人のシニアライフを紹介しています。
一九七三年に人気を博したNHK「新八犬伝」の人形美術に始まり、舞台、衣装デザイン、ジュエリーデザインと多方面にわたる活躍で、国内外で高く評価されている辻村さん。幻想的な辻村人形の世界が広がる「ジュサブロー館」で、ものづくりに対する熱い想いを伺いました。
私が一歳の頃、筆とそろばんと人形を並べたら、迷わず人形を選んだと、母が私に話してくれたことがあります。それほど、人の形をした人形に惹かれ、物心つく頃から、見よう見まねで作っていました。生家は満洲で料亭を営んでいました。華やかな着物を着た芸者衆が出入りするような環境で、美しい世界への憧憬は強まるばかり。ですが、時は戦時下。ましてや私は長男で一人っ子です。私の将来を案じた母は、人形作りを止めさせようと、よく私の手の届かない欄間(らんま<-ルビ打つ)の上に、はさみや針を隠していました。
最後の引き上げ船で広島へ。移り住んだ三次という地は、遊郭や芝居小屋がある艶っぽい花街でね。芝居の興行も盛んで、杉村春子先生や、前進座の河原崎国太郎先生といった、素晴らしい役者の芝居を見ることができました。当時、私も演劇部に入っていたから、裏方の手伝いや、ちょい役をもらったりしてね。貧しかったけれど、活気があって、水の合う居場所でした。
二十一歳の時に母を亡くし、上京。歌舞伎の小道具を作る会社に勤めました。伝統的な物づくりを学べたことは、その後の人形制作に大きな影響を与えてくれました。でも、私はチームプレーが苦手(笑)。注文をさばくためだけの組織仕事に満足いかず、もっと集中して自分の仕事をしたいと強く思うようになりました。自分ができることといったら、人形作りしかないと気付き、二十七歳の時、本格的な一歩を踏み出しました。結婚して、長男が生まれたのもその頃です。
人がこの世に生まれてくるのには、役目があるからでしょう。難産の末、医師からも「長くは生きられないだろう」と云われながら生を受けた私が、今こうして自分の一番好きな人形作りを生業としている。役目が見つかっている私は、何て幸せ者なのかと、心の中で手を合わせているのです。
創作のイメージは日々膨らむばかりです。ですが、かつて一度だけ、行き詰まった頃がありました。そんな時、ある一人の面打師の方が、私の個展に訪れたのです。初期の頃から私の作品をご覧になっているというその方から、こんな助言を頂きました。
「あなたは、感覚だけに頼っているから壁から抜けられない。感覚からは技術は生まれない。技術から感覚は生まれるのです」
愕然としましたね。“技術”がないと、人を惹きつけることはできません。人形を作る上での“技術”の大切さを教えてくれたその面打師の方とは、一年後に再会しました。私の新作を見て、その方は言われました。
「人間は、後ろからポンと肩を叩かれた時、一歩前に出る人と、その場で倒れてしまう人がいます。あなたは、一歩前に出ましたね」
それっきり、その方は僕の前に現われていません。“救いの人”との出会いは、今も不思議でなりません。
“技術”同様、人形作りにおいて必要なことは“想像する智恵”を持つことです。想像力は、人間だけに与えられた力です。例えば、「無」という文字をとりあげてみましょう。「何も無い」という意味ですが、行画がたくさんある字でしょう。「何も無い」のではなく、実は「すべてが有る」という意味を成すのです。一つの文字をとっても、想像力によって意味は無限に広がります。お遍路さんの傘に書かれる「同行二人」の文字も、自分ともう一人?弘法大師と供にいる自分?をイメージするという意味を持ちます。
想像することをやめたら人間はおしまいです。イメージの世界を広げ、高めることは、相手の気持も考えることに繋がります。
自分本位ではなく、相手の気持を想像することで、人は幸せになれるのではないでしょうか。
「真如の月」という言葉があります。これは、見る人の心しだいで、どのような場所からも見えてくる月のことを言います。その人の心が曇っていたり、汚れていたりすると真の美しい月が見えないのです。人形もまた、心のありかたで変化します。悲しい気持で人形を見ればそのように、楽しい気持で見れば幸せな人形に…。つまり、人形はその人自身の心を映し出す鏡なのです。誰よりも、私にとって人形は、鏡に他なりません。作った時の私の心を恐ろしいほど表すのですから。
同時に人形は、私に目に見えない創作のエネルギーを与えてくれます。「人形に救われている」という想いがあるからこそ、日々自分の心に問いかけながら、想像力や感性を琢磨せずにはいられないのです。
また、私は人形作りを通して、一つの考えに到達しました。それは「生まれてきたことがロマンである」ということです。人形は、自分でものを生み出すことはできず、人間の命よりとても不自由です。そう考えると、想像力を持てる人間に生まれてきたこと自体、何て得がたい事でしょう。
何処で、誰から生まれてきたかなどは関係ありません。生まれてきたことが、そもそも素晴らしいのです。
私には、この世に生み出してあげたい人形たちが、まだまだたくさんいます。自分が渾身を込めて作った人形が、見て下さる方に元気を与えることができたら、私にとってそんな幸せなことはありません。
生命の力を信じて走り続ける私の生き方
「人形師というと、暗い性格とよく思われるのですが、まったく逆。私は根っからのラテン気質です(笑)」と辻村先生。着流しにピアスという個性的なスタイルが、実に粋でいらっしゃいます。先生の作る着物や小物のモチーフに多く登場するのが”兎”。「向かい干支といって、自分の干支から数えて七つ先の干支にあたる人と交流したり、小物を集めると運気が上がりますよ。酉年生まれの私にとって兎が向かい干支ですからね」人生を楽しむ術や想像力の大切さ・・・。辻村先生から多くを学べる有意義な時間となりました。
桃の節句には毎年、ひな壇を飾ります。寿三郎さんの向かい干支である「花うさぎおひなさま」
歌舞伎作家・鶴屋南北が描いた作品に登場した女たちを艶やかに表現した「南北五人女」のひとつ
近松門左衛門・作の浄瑠璃を演じる、人形遣いの男たちを創作した「南北三人衆」のひとつ
「吉原かむろ」は幼く、無垢でありながら、妓の艶やかさを早くも宿した少女の雰囲気が伝わります。
近年はきらびやかな洋人形も手掛けます。自ら人形を操る公演もこの舞台で月1回行われます。
左から「金剛力士(阿形)」「金剛力士(吽形)」「楊貴妃観音」「馬頭観音」。仏像の世界にも寿三郎さんの創作意欲は切り込みます。どこかしらコミカルで素朴な味わいがあります。
辻村ジュサブロー。1933年11月、満州、錦州省朝陽に生まれる。人形師、着物デザイン、舞台、映画等の衣裳デザイン、演出、脚本、アートディレクターなど多岐に渡り活躍。その活動は国内のみならず、海外での評価も高い。1996年、東京・日本橋の人形町に「ジュサブロー館」をオープン。数々の作品が展示されているほか、オトリエも公開し、創作中のジュサブロー氏を間近に見ることができる。
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