活力のあるシニアが
新時代をつくる
様々な分野で活躍している著名人のシニアライフを紹介しています。
目標は、生涯現役。そのための努力こそ、私の幸せです。
リサイタルでは40曲以上を歌って踊り、その間十数回もの衣装替えをされる畠山みどりさん。とても来年70歳というご年齢とはお見受けできません。太陽のように明るく大らかなお人柄の裏には、数々のご苦労を乗り越えた強さがありました。
デビュー当時、島倉千代子さんに同行して地方公演に出る時、田舎に行くのがとても怖かった。辛い思い出があるからです。
私は3歳の頃、家の事情で祖父母の養女となり育てられました。稚内から士別に移り住んだ6歳のとき、終戦後の生活事情もあって、1年間だけ実母と弟妹も一緒に暮らしたんですが、別れるときはもう辛くて悲しくて。祖父母には大変かわいがられていましたから、子供心に気を使い、1人でこっそり畑で泣いていました。
そんな幼少時代ではありましたが、おてんばでもありました。スキーなど体を動かすことが大好きで、骨折したり列車にはねられそうになったり(笑)。でも、2度もの自宅の全焼や、東京へ移り住んだ実父が事業で失敗し脳溢血で倒れるなど、本当にいろんな事がありましたね。そして高校卒業後、華やかな東京への強いあこがれもあり、私は祖父母の反対を押し切って上京したんです。
歌手を志したのは上京後ですが、歌や踊りは少女時代から大好きでした。10歳の時に美空ひばりさんの『悲しき口笛』を聴いてショックを受けて以来、暇さえあれば歌っていましたよ。当時は学校で演歌を歌うのはご法度。でも、修学旅行や謝恩会では先生のほうから「畠山、ひばり歌え」って。みんなが喜んでくれるのが嬉しかったですね。修学旅行の時観光バスの中で私が歌っていると、運転手さんが急にバスを止めて、「何曲でもいいからひばりを歌って」と、マイクを用意してくれたことも(笑)。
上京後、素人のど自慢番組での優勝をきっかけにプロの道へと進みました。デビューしてからは、いろんなご縁にも恵まれ、順調に人気歌手の仲間入りを致しました。北島三郎さんなどは同期で、良き仲間ですよ。すべてが華やかでしたね。歌だけでなく、ダイエットや健康に関する本も手掛け50万部のベストセラー本にもなりました。何もかもが順調と思われた矢先です、地獄が訪れたのは。
バブルの時にはまった株で、大失敗してしまったのです。買った株は日々おもしろいように値上がり、最高潮の時はなんと47億円。ところがそれが一気に暴落して、後には22億円の借金が残りました。死ぬしかない、と思いましたね。恩人である方々の励ましもあり、立ち直ってからは仕事を選ばず、文字通り死ぬ気で働きました。どんな小さな場でも歌ったし、テレビのバラエティー番組では防火服を着て火だるまになったり、バンジージャンプをしたり。3年4ヶ月間、1日も休まず、朝から深夜までひたすら駆け回りましたね。
なんとか返済の目処も立ち、歌う幸せを取り戻した今思うことは、すべては周りの皆様のおかげということです。多忙のため体を壊し声が出なくなってしまった、そんなどん底の時でも、変わらずファンの方がいてくださいました。ありがたいですよね。今は、そんな皆様に恩返しをするために歌っています。「まだまだ、こんなに元気よ」と、夢をお届けし続けたいんです。
そのためには健康第一!リサイタルの時には、ステージはもちろん、お出迎えやお見送りまで元気な笑顔でお客様応対をしたいし、体力つけなきゃ、ですよ。めかぶ・粉状の煮干・玉葱・黒大豆の煮汁等体にいいものを全部取り入れたオリジナルレシピを食べ、毎朝ウォーキングをし、あとは、よく寝る(笑)。夫やスタッフにサポートしてもらいながら、万全の態勢です。50周年も55周年もやりますよ!生涯現役を目指して、そのための努力ならのぞむところです!
演歌歌手 畠山みどり(はたけやまみどり)1939(昭和14)年生まれ。昭和37年『恋は神代の昔から』でデビュー。『出世街道』と立て続けに大ヒットし、扇片手に袴姿というスタイルも話題を呼んで一躍歌謡界のスターとなる。またダイエットを中心とした健康法を紹介し、昭和58年には『ポカポカあたためてグングンやせる』が50万部のベストセラーとなる。バブル崩壊と共に株で莫大な借金を背負ったが、見事、復活。近年はその経験を活かし、人生の話についてのトーク番組や講演なども好評を得ている。
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